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オダギリジョー に参加中!
今回、「情熱大陸」を2回見た時点で打っていたものがあったのですが、自分でもちょっとこれは鬱陶しいかなーと思い、放置扱いにしていました。
でも折角の記念すべき番組だったのだから‥全く違う感想を持たれた方も多いのではと思いますが、やっぱり載せてみることにしますね。

9/18 『情熱大陸』(TBS)

密着ドキュメンタリー番組には、大雑把に言うと2種類ある気がする。
1つはその人を影のように追い、ありのまま映し出そうとする番組。
もう1つは、「どういう人なのか」という疑問を持って客観的な視点で追い続け、その人の本質を探ろうとする番組。
以前放送のあった「いま裸にしたい男たち」(NHK)の取材が、歩き続けるオダギリと歩調を合わせ、ありのままのオダギリをそのまま映し出してくれていたものだったとすると、今回、後者に近いと感じた「情熱大陸」は、緊張感のある距離をお互いに保ち、踏み込んだり踏み込まれたりしながらも、向き合い、応えようとしているオダギリの姿が見られたような気がした番組だった。
だから、
ワクワク観られると思っていたらとんでもなかった。
正直なところ、観ている間中ずっと苦しかった。
自ら窮屈さを選んでしまう、相変わらずの不器用さ。
自分らしくあるために、いつも自分の内側の何かと闘っているように見えるその姿。
そんな道しか選ばない人だとわかっているからこそずっと見つめ続けてきたのに、その姿を目の当たりにするとどうしようもなく苦しくなる。
苦痛や窮屈さをあの笑顔が隠してしまった瞬間を見つけたような気がすると、どうしようもなく胸がいっぱいになる。

一方的に「あなたを探らせてもらいますよ」という取材に対し、淡々と普段の姿を見せているようだったオダギリ。
でも、4ヶ月かけて出された答えが「あなたはスター」というものだったことには、失望の色を隠さないオダギリ。
オダギリジョーという人が本当に「スター」であるかどうかはともかく、誰の口からもこぼれ出てくる「スター」という言葉に、間違いなくそう人に思わせる力がある人なんだと思う。
だから「僕はスターじゃない」という言葉は、否定というより拒絶なのかもしれない。
でももしかしたら本当に、オダギリジョーという人の辞書には、「オダギリジョーはスター」という一文は載っていないのかもしれない。

ちょっとショックだったこと。
オダギリの衣装の話。昔から単純に好きだった私服姿。
衣装は自分を表現する手段の1つということは、以前からオダギリ自身が言っていたことだったけれど、これがもし、
<衣装は作業着。私服は本当の姿。>
だったとしたら、深く考えることもなくただホッと聞いていただろう。
でも、オダギリが口にしたのは、
<衣装が本当の自分。私服は作業着。>

まさに光と陰だと思えた。
それはまるで、陰(影)が光を演出するために存在し、光のために生きていると言っているかのように聞こえて、ドキッとまた苦しくなった。‥本当に?
そんな中、こんな言葉が画面に浮かんだ。
 
<オダギリジョーというものでいたいわけですよ。 きっと、それを作り上げたいんですよ。>

‥そうか。そういうことなんだ。


自分をさらけ出したくないとこだわりを持つオダギリは、自分に正直であればあるほど、その一番隠したい本当の姿を、ある意味曝け出してしまっているような気がする。
そして、オダギリジョーを支える小田切譲という人の姿にも、結果光を当ててしまうことになっているような気も‥
オダギリはそんな光と陰にも気づいているのだろうか。

4ヶ月の間、取材してきたディレクターさんたちによってピックアップされたオダギリの一側面。それが今回の番組。
残った膨大なフィルムの中には、どんな別の顔が隠されていたのだろう。
「生真面目」で「きゅうくつ」で、8時間だって議論してしまえる、まるで職人のようなオダギリの姿は、確かにテレビの画面からしっかり伝わってきた。
でも、それは何を意味するのだろう。
カメラを通してオダギリを見つめて来た作り手の人たちにとって、“スター”でもあったオダギリジョーという人は、結局どういう人だったのだろう‥

‥そう思っていたら、番組の最後の最後、映し出されたのはオダギリの「えぇーー!」という顔だった。
瞬間、『オダギリがあの顔であの声を出す相手は信頼出来る!』
『あのカットを最後に持ってくるってことは、オダギリという人をしっかり理解してる!』
我ながらめちゃくちゃな理由で思いっきりホッとした(苦笑)。


オダギリに「答え」を出そうとしていた番組に対して、
ふと、私も答えを出してみたくなった。

考えた瞬間、それは、自分の内から即答で返ってきた。

『オダギリジョーという人に答えなんてあってたまるもんか!』(笑)

ただその存在に感謝。そして番組に感謝。